枕元にある携帯電話が早朝に鳴る。朝4時53分だ。着信表示に兄の名前。「とうとう、その時が来たかな」ということが脳裏を横切り電話に出る。それは昨日の出来事だった。
(今病院からオフクロの血圧が低下して危険な状態にあると連絡があった。直ちに来て下さいと言われたので行ってくる)という内容。自分も駆けつけたいので着替えて支度して30分経過。
病院まで車だと20分で電車だと40分以上かかる。問題は残雪で道路が凍っている部分があること。万が一、事故を起こしたらまずいので電車で向かうことにした。5時30分に家を出る。
案の定、明け方は特に冷え込むので裏道はアイスバーン状態でツルツル。車にしないで正解のようだ。電車に乗って3駅目で(5時45分に亡くなった)という兄からのメールが着信。
残念、間に合わなかった。車で向かってもギリギリ間に合わなかっただろう。96歳という年齢だから覚悟は決めていたけど、死に目には会いたかったなぁ。こればかりは天の意志か。
母は2週間前に転んで大腿骨と肩を骨折してしまった。それが引き金になりガクッときて心不全と肺炎を併発。1月16日以降は昏睡状態になってしまった。そして24日に逝去。
昨年の10月から肺炎で入院して快方に向かっている最中に骨折。その後は身動きもままならず痛みと闘っている姿は不憫でならなかった。何とかしてやりたいが何もしてあげられない。
96歳という年齢では早期回復の見込みは厳しい状況でした。こんなに苦しんで不自由な状況が続くなら、本人も早く逝きたいと思っているのではないか。そんな状況の中での訃報でした。
病院に着いたのは夜明け前の薄暗い6時20分頃だった。夜に見る病院は初めてだが、病院らしからぬ綺麗なイルミネーションで飾られている。夜明けとのコラボが幻想的な雰囲気。
これから母の遺体と対面するというのに、まるで母が自分の到着を歓迎してくれているような錯覚に陥りそうになった。今さら慌てても仕方ないので不謹慎だとは思うが手持ちカメラで撮影。
今まで母がお世話になった病院。何十回も見舞いに来て母の調子に一喜一憂。もうこの病院に来ることはないだろう。そんな気持ちから母の最後の思い出として写真に残すことにした次第。
霊安室は病院の地下にあった。扉を開けると正面に母の遺体でその左手前に兄が座っている。線香はないが菊の花が数本用意されていて、それをご遺体前に手向けるられるようになっていた。
先ずは花を手向けて手を合わせる。顔の覆いをとってお顔を見る。覚悟していたとはいえ、母が死んだという現実に向き合うと自然に涙が溢れてくる。お母さん、今までありがとう。
葬儀社が9時半頃に来てご遺体を搬出するらしい。それまでの約3時間を母と兄と一緒に過ごす。兄は母の最期を看取ったらしい。呼吸が止まる瞬間を見たと言っていた。
意識は最期まで戻らずスッと息を引き取ったとのこと。1月16日以降は目を開けているところを見ていないので、もしかしたら16日には魂が抜け出てしまったような気もする。
15日の午前中に母と面会している。前日の会話よりも普通のやりとりが出来た。病室を去る時に握っている手を強く握り返してきて、なかなか離してくれなかった感じだった。
あの感触ははっきり覚えている。いつもとは違った感じ。今思えば、あれが最後のお別れのサインだったような気がする。今生の別れになるから力強く握り離さなかったのだ。
それならば、あの日はもっと長く傍にいてあげたら良かったと後悔の念しかない。お母さん、気が付かなくてごめんね!最後まで鈍感なバカをやってしまった。涙が止まらない。
霊安室で兄と母の思い出話や今後の段取り等の話をしていたら、葬儀社を待つ間の3時間はあっという間に過ぎ去った。葬儀社はご遺体を葬祭場の霊安室に運ぶとのこと。
葬祭場へは自宅(実家)の前を通って故人に家を見せて葬祭場に行くというルートだ。元気なら自宅で普通に生活を送りたいのが心情。人間にとって自宅は安らぎの場所でもある。
そんな計らいだったが雪の影響で路面が凍結していて危ない場所もあった。あの大雪は迷惑この上ない。何とか葬祭場に着いて仮の霊安室に入る。そこでようやくお線香が用意される。
母に線香をあげる、そんな瞬間がとうとう来たと思ったらまた涙がこぼれ出す。(お母さん)はいつまで経っても、幾つになっても、大人になっても、自分の(お母さん)なんですね。
「母親の温もり」「母親の無償の愛」に包まれて育った者には、自分が年老いても(お母さん)は(お母さん)なんです。母には感謝の気持ちしかありません。本当にありがとう。
お通夜は1月27日(土)で告別式が28(日)と決まりました。その際は気が済むまで感謝の気持ちを伝えたいです。
コメント
コメントはありません。